ディズニーの生みの親「ウォルト・ディズニー」は、素晴らしい映画を生み出し続けた半面、逆境を克服しながら自らの夢を追い続けた不屈のクリエイターであった。
1901年12月5日、ウォルト・ディズニー(本名ウォルター・イライアス・ディズニー/Walter Elias Disney)は、父はイライアス(Elias)と母フローラ(Flora)の4番目の子としてアメリカのイリノイ州シカゴで生まれました。
南北戦争後のこの時代のアメリカでは、大量の移民が押し寄せ、豊富な資源と土地を生かして急成長していく時代で、日本は日露戦争が勃発する3年前であった。
父方の祖父母はアイルランド系の移民でアメリカ人で、5人兄弟の4人目(兄4人・妹1人)。
7歳年上の兄の「ロイ・オリヴァー・ディズニー(Roy Oliver Disney)」とは、生涯共に事業をおこなった。
1925年にリリアン・バウンズ(Lillian Bounds )と結婚。
2人の間には2人娘、ダイアン(Diane)とシャロン(Sharon)がいる。
大きな影響を与えたマーセリンでの幼少期
ウォルトの父は、鉄道員として働いた後、ウォルトが生れたころは建設請負業者として働いていた。
その後、ウォルトが4歳の時にミズーリ州マーセリンという田舎町の小さな農場を購入し家族で引っ越したため、ウォルトは自然の中でリスやキツネ、ウサギなどの動物たちに囲まれ幼少期を過ごした。
ウォルトは後に「私の人生に影響を及ぼすような出来事はマーセリンで起きた。」
と言うほど、この環境がウォルトの人生に非常に大きな影響を与えた。
この家の畑の近くには鉄道が走っていたこともあってか、成功して後、家に8分の1スケールのミニチュア鉄道を走らせ、ディズニーリゾートにも多くの鉄道を走らせるほどのウォルトは大の鉄道好きとなった。
また、絵を描くことも好きで、7歳の時には自分の描いたスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。
好奇心の赴くままに行動した青年期
しかし、1908年の秋頃には農場を売って、再び一家はシカゴに戻った。
ディズニー一家は決して裕福ではなく、ウォルトは兄のロイと共に家計を支えるため毎朝新聞配達をしてから学校に行き、夜は美術専門学校夜間部のコースで絵を学ぶハードな生活を送っていた。
その後、新聞配達から解放されたウォルトは、好奇心の赴くまま、鉄道内でポップコーンを販売したり、郵便局で働いたりしていた。
サラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発した際には、愛国心に駆られ高校と美術学校を退学、陸軍に志願した。
当時16歳であったウォルトは、入隊可能な年齢に達していなかったため、出征証明書を偽造してまで志願したが、軍ではなくフランスの赤十字社の傷病編運搬部隊に入隊となった。
まず、アメリカの野営地で、車のモーター修理方法・車両の組み立てと分解方法・起伏の多い場所での運転方法などの訓練を受け、いざフランスへ就航となった時点で、インフルエンザに。
ウォルトが療養中に休戦となった。
1918年11月11日のことでした。
しかし、仲間の部隊を助けるため12月4日、17歳の誕生日の前日にフランスへ向けて旅立ち、改造された家畜船は定員いっぱいの50人を乗せてフランスを目指した。
救急車の整備士と運転手などを担当し1年ほど従事している。
この時も絵を描くことを続け、彼のスケッチや風刺画は人気があった。
この時に親しくなった食堂員の一人は、「彼は、ドライバーとして私を病院へ連れて行くのに忙しくしていました。それでも絵を描き続けていました。」と証言している。
近年のディズニー社は、リベラルな風潮も多くみられるが、ウォルトディズニーの愛国精神は今も健在で、2012年3月、ウォルトディズニーカンパニーは、帰国した退役軍人を雇用、訓練、支援するための全社的なイニシアチブであるHeroes WorkHereを発表した。
🇺🇸This Veterans Day we celebrate those who served our country. The Walt Disney Studios & World War II, is a remembrance of the Studios’ extensive contributions to the Allies’ World War II effort. Admission is free year-round for active, retired, and veteran military personnel. pic.twitter.com/EWf0EVv4aa
— The Walt Disney Family Museum (@WDFMuseum) November 11, 2021
アニメーションとの出会い
大戦終結後、一年振りに故郷のアメリカに帰国したウォルトは、カンザスシティーで漫画家としての活躍を目指し、広告、劇場のプログラム、カタログ用の商業イラストを描いたが、仕事の依頼は少なく、兄ロイの紹介で広告デザインの仕事を始めるも、経営悪化によりわずか6週間で解雇された。
しかしウォルトはこの会社で、後にミッキーマウスを共に誕生させることになるアブ・アイワークスと出会っている。
その後アニメーション制作会社「カンザスシティ・フィルム・アド・カンパニー」に就職、ここで短編アニメの作画を担当する内、アニメーションの魅力に取りつかれ、制作に没頭するようになった。
一年後の1921年にウォルトは「ラフォグラム・フィルム(Laugh-O-Gram Studio)」を設立し独立。
「ニューマン劇場のお笑い漫画(Newman Laugh-O-Grams)」や「赤ずきん(Little Red Riding Hood)」などを制作し、高い評価を得て広告デザイン会社の元同僚アブ・アイワークス(Ub Iwerks)を初め、数人のアニメーター仲間を呼び寄せ仕事は順調であった。
しかし、制作に没頭するあまりに資金のやり繰りが乱雑になり、ウォルトは1922年の終わりまでオフィスに住みユニオン駅で週に1回入浴する極貧生活を送るようになり、1923年7月最終的にスタジオは破産。
ウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと向かう。
ディズニー社設立~大成功からの転落
ウォルトは映画用カメラを売却して、片道の列車の切符を稼ぎ、未完成の『アリスの不思議な国(Alice’s Wonderland)』のフィルムを持ってハリウッドに引っ越した。
ハリウッドでは兄のロイと共に「アリスの不思議な国」の続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ」(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)を興した。
これが実質的にディズニー社誕生の歴史的な日となる1923年10月16日であった。
その日、ウォルトはニューヨークのカートゥーン配給業者、マーガレット・ウィンクラーと契約した。
4ページ足らずの契約書には、ウォルト・ディズニー、マーガレット・ウィンクラー、そしてやがて彼女の夫となり、のちに『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』シリーズの配給業者となったチャールズ・ミンツ、そして証人として立ち会った、ウォルトの叔父ロバートの署名が記されている。
ウォルト・ディズニー・アーカイブスのディレクター、レベッカ・クラインは、次のように述べている。
「ウォルト・ディズニー・カンパニーが正式に発足したのは、1923年10月16日、ウォルト・ディズニーがハリウッドにある叔父の自宅で、ごく簡単な契約書に署名したことに始まります。この契約によってウォルトと兄ロイ・ディズニーは、サイレントカートゥーン『アリス・コメディ』シリーズを制作・配給できるようになり、この契約こそが100年にわたり世界中を魅了してきたディズニーの魔法の、開発と制作への扉を開きました。」
https://www.disney.co.jp/corporate/news/2023/20231020_02
少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリス・コメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗り、1925年、従業員であったリリアン・バウンズ(Lillian Bounds)と結婚した。
1927年、ユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案。
オズワルドを主人公にしたアニメを制作した。
オズワルドはシリーズは大ヒットを飛ばし、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。
だが1928年2月、ユニバーサル社のチャールズ・B・ミンツは、ユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求。
ウォルトはこれを拒否したが、ユニバーサル社は社員の引き抜き工作を仕掛け、アブ・アイワークスを除く殆どのアニメーターが離職してしまった。
ウォルトのディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失ってしまう大損害を被り倒産の危機に直面する。
ミッキーの誕生~嫌われ者を主役に抜擢
事業を再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトとアイワークスは、オズワルドやアリスコメディの中で、度々登場させていた敵役で嫌われ者の「ねずみ」を主役に抜擢することを決定。
そうして苦心の末生み出されたのが「ミッキーマウス」であった。
1928年11月18日に初公開された『蒸気船ウィリー』は大ヒットした。
その後も「ミッキーマウスの短編映画シリーズ」次々と公開され現在も継続している。
また、ウォルトはミッキーマウスとは別のアニメーションと音楽を合わせた短編映画「シリー・シンフォニー」シリーズの制作をはじめ、第一作目『骸骨の踊り』(The Skeleton Dance)は1929年に公開されている。
同シリーズには3色カラーを世界で初めて用いた作品で、第5回アカデミー賞短編アニメ賞を受賞した『花と木』(Flowers and Trees)や『三匹のこぶた』(Three Little Pigs)、ドナルドダックのデビュー作である『かしこいメンドリ』(The Wise Little Hen)などがあり、1939年の『みにくいアヒルの子(The Ugly Duckling)』まで75作品が作られた。
空前の大ヒットを記録した「白雪姫」
大ヒットを続けていたウォルトが、次に挑戦したのは、長編アニメーション『白雪姫』(Snow White and the Seven Dwarfs)であった。
これまでのディズニー社は「ミッキーマウスの短編映画シリーズ」や「シリー・シンフォニーシリーズ」など、400本以上の短編アニメーション作品を制作し、視聴者に大人気となっていた。
しかしふたを開ければ製作費に費用をかけ過ぎ赤字続きであったという信じられない話。
そこでさらに莫大な費用と4年という長い年月かかる長編作品に挑んだウォルト。
当時アニメーションといえば実写映画の合間に子供向けに上映される短編を指していた時代。
長編アニメーションの制作は大反対され「ディズニーの道楽」とも言われたが、ウォルトは自らスタッフたちを説得。
最終的に彼らはその熱意におされて製作がスタートすることとなる。
作成されたセル画の枚数は25万枚にもなり現在のアニメーションでも遠く及ばない枚数であった。
4年の歳月と当時の金額で170万ドルの巨費を投じて制作された、世界初のフルカラー長編アニメーションは、1937年12月21日に公開し、結果は800万ドル(2022年の換算で約1億6千万ドル)の収益を上げる桁外れの大ヒットを記録。
ディズニー社は現在の場所である、カリフォルニア州バーバンクに51エーカーの新スタジオの建設資金を調達し、1940年に移転した。
人生最大の試練
しかしその後、ウォルトは人生最大の試練に直面するようになる。
第二次大戦前、ますます悪化していく国際情勢の中で公開された二作目の長編アニメ「ピノキオ」は、国内では好評であったが海外での公開が見送られたため、興行成績は振るわなかった。
三作目の「ファンタジア」はステレオ効果が利用された最初の映画で、なおかつサラウンドの原型ともいえる方式が導入された画期的な歴史的映画であったが、最先端技術を導入に多くの資金が投入されたため、当初予定していた予算の4倍の総額約280万ドルを費やした。
しかし興行成績は振るわず、批評家からの評価も低かった。
ディズニー社は膨大な借金を抱える羽目になり、株価は25ドルから4ドルにまで大暴落して会社は倒産の危機に陥り、ウォルト・ディズニー・スタジオは多数の従業員を雇用し続けることができず、多くのアニメーターを解雇した。
そんな中、800人のアニメーターのうち300人が、賃上げを求めて5週間のストライキに突入。
金銭に無頓着で自身の創造を具現化するためだけに突き進むウォルトとディズニー社の従業員たちの間にはやはり大きな隔たりが存在していた。
ウォルトはのちに、この時が人生の最大の試練であったと話している。
ストライキの結果、694人の従業員が残ることになった。
ディズニーは経営難から立ち直るため、急遽、低予算で5作目の長編『ダンボ』を制作。
すでに欧州で激しい戦争始まっている最中で、真珠湾攻撃の2か月前となる1941年10月に「ダンボ」は公開され、会社にとってどうにか必要な利益を上げた。
ディズニー社の黒歴史-プロパガンダ作品
12月7日日本軍による真珠湾攻撃の後、500人のアメリカ陸軍兵士が、近くのロッキード航空機工場を敵の空襲から守るために、ディズニースタジオに8か月駐留した。
翌日8日、アメリカ海軍はウォルトに、戦争への支援を得るためのプロパガンダ映画の制作を依頼、ウォルトは海軍との最初の映画契約を結んだ。
ウォルト・ディズニー・スタジオは短編アニメ1本あたり4500ドルを受け取ったが、これは短編アニメの標準利益を大幅に上回るものだった。
間もなく陸軍航空隊、農務省、財務省など政府の他の部門も契約を申し出て、学者のジェラルド・ライティは「米軍がなかったら、ウォルト・ディズニー・カンパニーは今日存在していなかったかもしれない」と語っている。
これらのプロパガンダ映画や教育映画は、戦争の詳細や戦争に参加することの意味について、アメリカ人や子供たちに教育することを目的としていた。
これらの映画は、アメリカ人が戦争に参加したいと思い、アメリカが勝利できるように国民として役割を果たしたいと感じるようにするための役割を果たした。
その後ディズニーキャラクターは68時間相当の膨大なアニメーションの中だけでなく、第二次世界大戦に参戦した。
具体的にはフライトジャケットのパッチ、ピンバッジ、部隊の記章、軍や同盟軍の記念品、戦闘機のペイントなどで、唯一登場しなかったキャラクターは「バンビ」のみであった。
登場したキャラクターは、当時ミッキーマウスを凌ぐ人気と言われたドナルドダックが圧倒的に多く内訳は以下の通り。
ドナルドダック:216以上
プルート: 45
グーフィー:38
ダンボ:20
ミッキーマウス:37
白雪姫:1(医療ユニットで公式では1回)
など
画像は「Artful Patriotism: DOD and Disney」より
これがどれほどの効果があったかは分からないが、戦場という極限の緊張状態の場で、兵士たちが子供のころから慣れ親しんだディズニーキャラクターたちが、彼らの傍にいたことによる兵士たちの精神的なリラックス効果は少なくなかったと思う。
しかし第二次大戦中、ディズニーの従業員の90%以上がプロパガンダ映画の製作に従事し、68時間に相当する教育用戦争映画を製作したが、結果そのほとんどは原価であった。
また、第二次世界大戦中はディズニーアニメのプロパガンダ的な内容のため、ヨーロッパへの輸入が禁止されディズニーは打撃を受けた。
そのため、南米で新しい顧客を獲得しようとして制作されたアニメーションが1943年2月6日公開の『ラテン・アメリカの旅』(Saludos Amigos)と1944年12月21日にメキシコで先行公開された『三人の騎士』(The Three Caballeros)でした。
ウォルトディスニーの伝記「Walt Disney」(邦題:創造の狂気)の中では、大戦中のプロパガンダへの協力姿勢は、当時、労働組合との争いや大戦による海外市場の縮小により、経営が圧迫されていたスタジオの生き残りのための方策の一環であったこと、彼にとっても政府への協力には意義を見出していなかったことが記述されている。
しかし、もともと愛国心の強かったウォルトは、戦後も引き続き、政府の核実験、原子力開発キャンペーン用の「Our Friend the Atom(我が友原子力)」という映画を作成するなどプロパガンダに協力している。
ディズニーリゾート計画
ウォルトは1948年ごろから、アニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。
ウォルトはテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、1954年に「ディズニーランド」というTV番組を放映、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行い、大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。
なお、この番組は2008年まで54年間にわたって放映され続けた。
こうして資金を調達に成功したテーマパーク建設は、1954年7月21日に着工。
ウォルト自身、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行いながら工事が進み、1955年7月17日にディズニーランドは正式にオープンした。
ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、以下のように語っている。
この幸せな場所に来られた皆様を歓迎します。
ディズニーランドはあなたのものです。
ここでは、年老いた人々は過去の懐かしい思い出を蘇らせ。
そして、若者は将来の挑戦と希望を味わうことができます。
ディズニーランドは、アメリカをつくり上げた理想、夢
そして厳しい現実に捧げられており
世界中の人々に喜びとインスピレーションの
源となることを願っています。
To all who come to this happy place, welcome.
Walter Elias Disney
Disneyland is your land.
Here, age relives fond memories of the past.
And here, youth may savor the challenge and promise of the future.
Disneyland is dedicated to the ideals, the dreams, and the hard facts that have created America,
with the hope that it will be a source of joy and inspiration to all the world.
An overjoyed Walt Disney on the opening day of Disneyland in 1955. pic.twitter.com/uf12GdPbzP
— Journey Through Time (@JrnyThroughTime) July 11, 2024
1965年、ディズニーはフロリダに二つ目のディズニーパークを作ることを公表。
マンハッタン島の2倍程にもなる広大な土地を買い、エプコットの他、ディズニーランド、ホテル等を取り入れたディズニー・ワールドを作り始めた。
死去
1966年12月15日、肺癌による肺炎と急性循環不全で、ディズニー・ワールドの完成を見ないままバーバンク市内の病院で死去(享年65歳)。
彼の遺体は火葬され、遺灰はフォレスト・ローン記念公園(グレンデール)に埋葬された。
ミッキーマウスは38年間滅多に見せなかった涙を流し、直後に発行されたフランスの週刊誌パリマッチの表紙を飾った。
Le 15 décembre 1966, le monde apprend la disparition de Walter Elias Disney.
— Disneyphile (@DisneyphileLIVE) December 15, 2022
Pour la première fois de son existence, les larmes s'emparent de Mickey (couverture de Paris Match) et le monde entier pleure sa perte. pic.twitter.com/tcBrzPM6wj
夢を求め続ける勇気さえあれば
全ての夢は必ず実現できる
いつだって忘れないでほしい
すべては1匹のネズミから始まったということを
ウォルト・ディズニー
All our dreams can come true,
Walter Elias Disney
if we have the courage to pursue them.
I only hope that we don’t lose sight of one thing –
that it was all started by a mouse.
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